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【武将風雲録 1555年・織田#6】西国は燃えているか

1568年の織田幕府成立すぐの9月、山陰軍団・羽柴秀吉が周防を攻めて陶家を滅亡させる。

これによって中国地方も完全に織田家支配下に入った。これにて羽柴秀吉の山陰軍団もお役御免となり新しく九州の攻略を担当し、呼称を「九州軍団」とした。同時に信長も周防へと移動。

10月、信長本隊が周防から豊後を攻撃。これで大友家滅亡。そして四国制覇を終えた佐久間信盛を豊後に移動させた。ここから信長は一旦美濃まで戻り頓挫していた東部方面の攻略に力を入れることに。

その後は龍造寺家侵攻のための準備を整える。

1569年1月、どこを探してもいなかったあの男がついに登場する。

別の世界線では斎藤道三家を武田信虎から守ろうとした忠臣だったり、はたまたさらに別の世界線では織田信長を本能寺にて葬る逆臣だったりするが、果たしてこの世界での活躍は如何に。

なお明智は早速忠誠を上げて美濃に移動させた。

織田信長は西国での戦いを配下に任せて美濃に帰還する途上、未だ四国に在った。

その後羽柴秀吉が周防から肥前を攻撃。2国ある龍造寺家から肥前1国を切り取った。

3月、九州軍団・羽柴秀吉による肥後侵攻が行われ龍造寺家滅亡。

5月、九州軍団・佐久間信盛が豊後から日向を攻める。伊東家滅亡。

そして同月、信長が西国出陣から美濃へ帰還。

6月、羽柴秀吉が薩摩へ侵攻。島津家の徹底抗戦を排し、ついに西国は完全に織田幕府の軍門に降った。

信長は羽柴秀吉を実質的な九州探題と定め九州全体の統括を一任した。佐久間信盛には同じく実質的な中国探題兼四国探題とした。両目は任地における各勢力から降伏した武将たちの忠誠度上げを行い次第、東方での戦闘に加わるものとし織田軍の地方方面軍としての九州軍団そのものが解体され織田本隊に吸収された。

信長が直接率いることとなった東方軍団は武田家攻略の好機を測るべく偵察を敢行。

しかし凄まじい数の鉄砲を保有する真田幸隆信濃で鉄壁の守りを見せる。

幕府東方軍団は8月に信濃へ侵攻。

まずは先陣を切って300の兵で攻め込んだが自軍武将が真田幸隆の銃撃に倒れて戦死。結局攻勢は失敗したものの9月に再度攻め込み信濃を陥落させる。この戦いで真田昌幸高坂昌信・山縣昌景を捕虜とし織田家に加入させた。

なお馬場・内藤の両名は8月の戦いの中で戦死していた。

早速信濃で貯め込まれていた金を使ってこの3名の忠誠度を100まで上げる。

西国の仕置を済ませた各地方探題の羽柴・佐久間も東国の戦争に加わるべく西方の果てより信長の下へと向かっている。

1570年1月、幕府北方軍団が越中から越後へ侵攻。上杉謙信軍配下の直江某を撃破して越後制圧。その後2月、3月と立て続けに上野を攻めて陥落。上杉憲正家滅亡。

4月と5月、東方軍団が甲斐に侵攻。

別の世界線では親子和解を果たし、武田幕府成立まで父を支えた名将・武田信玄はここに敗北し滅亡する。

この戦勝を祝う祝宴の席で明智光秀が「上様、我らも骨を折った甲斐がありましたな」と小粋なジョークを飛ばす。

5月、6月と北方軍団が陸前を攻め上杉謙信家滅亡。

この両雄の滅亡に伴って織田幕府の完全統一がぐっと近づいたことは言うまでもないが、未だ北条家・今川家とも健在の状況である。

 

7月には出羽を北方軍団が攻略。最上家滅亡。

9月、陸奥にも侵攻。伊達家が滅亡し、これによって東北も織田家の支配地となった。

残るは関東・東海の諸将たちである。

しかし佐竹家攻略の準備を進める中、織田を除いた敵勢力の中では最大勢力である北条家が甲斐を攻める。

11月の戦闘では戦力がほぼ同等だったため籠城戦でどうにかなったが、しかし12月にも再度の侵攻を受け、しかも今川家まで援軍を送ったため防衛不可能として守将・竹中半兵衛は信長のいる信濃へと撤退した。

12月、陸前から佐竹を攻め常陸攻略。さらに信濃から竹中半兵衛が甲斐に侵攻しこれを奪還。

混迷を極めたこの長き戦いもついに終止符が打たれようとしている。

1571年の始まりであった。